「普遍から特殊へ」というけれど

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 今回は前回の記事のテーマで,本文中のところどころに現れた「一般化」について軽く触れておきます。


 よく,数学と科学の違いは何か,というと「数学は一般(普遍)から特殊」,科学は「特殊から一般(普遍)」という方向性をもった学問だと端的に説明されることが多いです。科学が万物の現象という個々の事実をかき集めて,それらをもとにある法則を築き上げる,という「帰納的」な方法によって主に体系づけられる学問である,というのはイメージしやすいと思います。数式をいじるよりも先に,まず実験などから得られたデータからある法則を「推測」します。それを「仮説」というわけです。
 事実とは異なるようですが,ニュートン万有引力を発見するきっかけは,リンゴと地球とが互いに及ぼしあう引力という,きわめて特殊な場合だったわけです。そういった仮説を「普遍的な事実」にするには,すべての物体について引力(質量に比例し距離の2乗に反比例する)が存在することを調べればいいですが,この「すべての場合」というのが無限にある,あるいは有限だとしても確かめるには気の遠くなるほど莫大な数であることがほとんどです。
 したがって,科学における「仮説」はあくまで定「説」のまま広く認識されているものもあるし,事実となっているものは数学的にそれなりの論証が必要となります。
 こういった性質から,科学は「帰納的(inductive)」であり,それを「特殊から普遍へ」と表現しているわけです。


 では,「数学的な論証」といいましたが,数学は「確かなこと」からのみ導かれる新たな事実(結論)を積み上げていくことで構築されています。普段数学で解く問題などは,定理や公式といった普遍なものをもとに,ある条件や仮定のもと(特殊な場合)で結論を導きます。これを「帰納(induction)」に対して「演繹(deduction)」といいます。
 確かなことから導かれる新しい事柄は,これもまた確かなことです。その積み重ねで数学は足場が一切揺らがない確固な理論体系を構築してきたわけです。幾何学や整数の性質における論証では,ユークリッドの『原論』が有名です。「確かなこと」の根本にあるのが公理や公準といわれるもので,ユークリッドはこれをしっかりと述べた上で論証を展開しています。
 ところが,数学者たちの功績の中には,その根本事実が不明確なまま論証が重ねられていったものもありました。論証を逆にたどることにより,必要な最低限のエッセンス(=公理)にたどり着き,そこから改めて数学という体系を構築しなおしました。実はこの試みはそう昔のことではありません。欠陥が見つかり,補強できないとなれば,先人が築き上げてきた数学のピラミッドはその欠陥から先はガラガラと崩れます。
 例として,「三分法則」というものがあります。すべての実数は,性であるか,負であるか,0であるかのいずれかである,というごく当たり前の(ような)ものです。しかし数学者はこれを当たり前の事実(公理)とせずに,もっと根本的なことから証明しようとしました。もしそれで証明できなければ,数の概念のかなり根元の部分が揺らいでしまうことになります。幸いこれは公理によって証明されたのですが,それは19世紀末のことでした。むろん,この法則(=定理)はその何百年も前から当たり前のこととして使われていたのですが。
 ほかにも, m+k=n+k ならば, m=n といったごく当たり前のものも,実は定理ではなく,別の公理から導かれたものです。その公理として,加法の結合法則,逆元,零元といったものがセッティングされています。
 こういった数学の性質が,「普遍から特殊」ということです。


 数学が最も確固とした学問であること,それゆえ科学における仮説を普遍なものへと昇華させるために必要な論理は,数学に依拠しています。このことから,科学の発展は数学なくしてあり得ないといってもよいでしょう,しかし逆に考えれば,数学の有用性は,高等なものになればなるほどそれ自体ではなかなか発揮されず,科学での活用されるをもって日の目を見ることが多々あります(数学者にとっての数学をすることの意義は科学に依拠しない別のところにもあるので,ひがむことは全くないのですが)。このことは,オイラーが遺したとされる次の言葉に集約されている気がします。

 ─「数学は科学の女王にして奴隷」
 


 また,数学と科学(をもさらに細分したもの)のこのような特徴を皮肉って,次のような逸話があります。

 ─天文学者と物理学者と数学者がスコットランドを旅行し,電車に乗っている時,車窓から草原を眺めると,1頭の羊が見えた。天文学者は,「スコットランドの羊は黒いのか。」と言った。それに対し物理学者は,「いやいや,スコットランドの羊の中には黒いものもいるということだ」と応えた。続いて数学者がこう述べた。「スコットランドには少なくとも1つの草原が存在し,そこには少なくとも1頭の羊が含まれ,その羊の少なくとも一方の面は黒いということだ。」


 
補足しておきたいのが,よく数学で用いられる「数学的帰納法」は,ひとつひとつの場合について証明していくドミノ倒し的な過程が帰納「的」に見えるもので,論証法そのものは演繹だということです。
 また,数学が演繹のみで構築されているものというわけではないことも述べておきます。体系自体は演繹的であっても,数学者を含む人々の日常は特殊にあふれています。
 数学の演繹的な体系はあくまで歴史が始まってから現在までのものをまとめ,(恣意的に)組み直したもので,先人の発見した事,考え得た事は必ずしもその順番には沿っていないはずです。むしろ,科学的(帰納的)な思考のほうが自然に適っているのかもしれません。
 
 数学教育がなぜ,指導要領に示されているような順番で行われているのか─その時点では循環論法や矛盾,あるいはきわめて特殊な場合にのみの限定,といったものを含んでまで─その根拠が少し見えてきたような気がします。
 
 問題解決にあたっての数学的な考え方としては,帰納的な考え方,類推的な考え方というものも肝要であり,日本の学校教育においても,それら3つが思考を進める際の3本柱になっています。

 では,「一般化」の考えについてですが,これは帰納的な考え方と密接な関係にあります。
 ハンガリーの数学者ポリア(1887〜1985)は一般化について,次のように述べています。

 ─Generalization is passing from the consideration of a given set of objects to that of a larger set, containing the given one.


 大事なのは最後の"to that of a larger set, containing the given one",「考察した(特殊な)場合を包含したより大きな場合へ」,この場合である事柄が成り立った,あるいはある法則が見つかった,というとき,じゃあ別の場合だとどうかな,という考えの移行です。その「別の場合」というのが,一般化においては特殊を含んだより大きなもの,具体的には,自然数の場合だったものを複素数の範囲まで拡張したり(本ブログ『マクローリン展開を用いたバーゼル問題の解法に関するメモ(その1)』の一般二項係数),直角の場合だったものを0°から180°までの角に拡張したり(同『パップスの中線定理の拡張に関するメモ』の三平方の定理余弦定理)といったものが挙げられます。
 もっと典型的な例だと,多角形の内角の和を求めるような場合です。よく小・中学校の算数・数学教材として取り扱われますが,よく見られる授業展開としては,まず子どもは三角形,四角形,と特殊な場合で考えていきます。そこから得られた結果を表にするなどして,あるきまりを見つけ出します。このプロセスは「帰納的な考え」です。そして最後に,「102角形の内角の和は?」というような問いが出され,きまりを見つけた子どもたちは即座に答えを出します。ここで一般化ができていると見ることができます。即座に答えられるということは,一般化したもの(式)に102の場合という特殊な場合を適応(代入)させたと考えられるからです。もちろん,このきまりが「正しい」ことを証明するには,帰納的な考えだけでは不十分です。いずれ演繹的な証明を考える場面を設けてもいいでしょう。この授業では,子どもたちは特殊な場合の結果をもとに帰納的な考えによって得られたきまりを用いて,別の特殊な場合を演繹的に考えるという,いわば還元的な,数学的思考方法を組み合わせた問題解決を行うことができます。


 
以上,前半で科学と対比させて数学のマクロな特徴,後半で一般化との関連について考えてみましたが,数学が「普遍から特殊へ」といわれるゆえんをもう一度見直してみると,数学という体系そのものを指して言っている場合もあれば,数学(教育)は(条件を)与えられた問題を計算してひたすら解くものだ,というやや偏重なイメージから批判的に言っている場合もあるかもしれません。この言葉の意味するところを意識し,数学という体系をその歴史も含めて改めて振り返ってみたところで,数学を学ぶ上,教える上で大事なことは,演繹,帰納,類推といった数学的な考え方のかなめとなるものを,いかに活用するか,といったところにもひとつあるのではないかな,と思ったところです。



参考文献
『算数教育 原論』橋本 吉彦 著 東洋館出版社 2009年
フェルマーの最終定理 ピュタゴラスに始まり,ワイルズが証明するまで』サイモン・シン 著 青木 薫 訳 新潮社 2000年